東京60WATTSのプロフィール!

大川毅
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杉浦琢雄
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森利昭
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〜記憶は曖昧だけど〜
1999年夏ごろ?  大学4年生。大学の同期で、音楽サークル「アメリカ民謡研究会」で一緒に研究員だったベーシストの岸田くんからバンド組もうと誘われた。そろそろ就職活動しないとまずいと思っていたが、そんな気もなかったので、ほいほいと乗っかる。
他のメンバーはみんな岸田が集めた。隣のサークル「おたまじゃくしの会」でフォークギターしか弾いたことない太郎くんと、いっこ上で、音楽サークル界隈で凄腕としてその名を轟かせていたピアノのたくおさん。太郎は卒業する気もなくいつもギターを弾いて暇そうだった(のちに7年通い除籍)。たくおは試験に失敗し卒業し損ねてあと単位いっこのために留年していて暇そうだった(のちに5年で卒業)。
ちなみに人物の初出は敬称をつけるが、以降はめんどいので呼び捨てるルールだ。
ドラムは誰だっけ?確か岸田のツレの「ツネ」だったんじゃないか?岸田と同じく香川の出身でヤンキーっぽかったがいい奴だった。なんとかってバンドのドラムをやってたけど、今何してるかな。地元帰ってトビとか塗装屋さんとかやってそう。
なにせその5人でスタジオに入ってガチャガチャやった。セッションしたというとカッコいいし伝わりやすいかもしれないが嫌いな言葉なので使わない。
ボガンボスの「魚ごっこ」をやった。なんでその曲だったか、岸田と俺の数少ない共通好みだったと思う。他にも曲をやったかもしれないが覚えてない。なんせ日本語の歌でポップでルーツがあって、、そんなのをやろうというイメージだったんではないか。
そこらへんから俺はいろんなCDを貸してもらい、日本語の歌をいろいろ聞き始めて研究したんだと思う。それまではアメリカ民謡の研究者だったから。
岸田からはカーネーションを借りて、太郎からははっぴいえんど〜ナイアガラシリーズを借りた。他にもいっぱい教えてもらい、俺はエンケンや友部さんを教えようとしたが、みんな知ってた。音楽オタクな奴らなのだ。たくおはいつも黙ってピアノを弾いていた。
曲は当初、言い出しっぺの岸田が作ることになっていた。それがしたくて作ったバンドだし。けどなかなかうまく進まなかった。太郎はエレキギターを弾きたがらないし、たくおはピアノの音しか出さないし(オルガンとかのファーーーっていう音をやりたがらない)、俺は歌詞にイチャモンをつけて替えようとするし。
岸田の思惑がことごとくはずれていくのだ。そして彼は遅漏なのでなかなか曲を持ってこない。持ってきても誰も言うことを聞かない。
それで悩み始めてたみたいだ。
それに反して俺が曲を作り出した。詞をどんどん書いて曲をたちどころにつけていった。
「千川の借家で猫と暮らしてる」とか「西武線のうた」「サマータイムブルー」「夕焼け」とか作ったんじゃなかったか。
そのうちたくおが曲を作ってくるようになった。その場で俺が歌詞を書いたりした。
「夏は終わりぬ」「昇天」「内緒話」とかかな。そんな感じでオリジナル曲が増えていった。
レコーディングしようとなって、山中湖だかのスタジオ付きペンションに行ったのはもうちょい後か
うん、その頃にはドラムはかおるちゃんっていう女の子になってたし、ハーモニカ吹きのコースケもほぼメンバーになってた。コースケは今、ワハハ本舗でボードビリアンというか俳優?というか、洗濯板奏者を、やってたりする。ふたりでライブしたのは今から4.5年前か。あれまたやりたいな。
かおるちゃんは細くて長くてちょっとしたモデルさんみたいな女性だった。今何やってるかな、ドラムはやってないだろうな、アパレルとか、ハウスマヌカンとかかな、知らんけど。
なんせそのメンバーで自主録音してカセットテープを初めて作った。サマータイム〜と千川の借家で〜の2曲入りだ。たぶん今聴いたら地獄のようなものだろう。けどピアノはすでにうまかった気がする。後になってサマータイム〜をちゃんととったとき、あいつ同じソロ弾いてたもんな。
初ライブは下北の屋根裏だった気がする。昼間のオーディションライブってやつだ。チケットノルマがものすごいやつ。なんか若い女の子がいっぱい客でいたな。そうそう岸田がその頃別でベース弾いてたナントカシャカっていう半分ビジュアルみたいなバンドのお客をひっぱってきたんだった。オーディションの結果はダメだった気がする。また昼に出て、みたいな。
デモ音源をまた作っていろいろ持ってったりした。下北界隈に。ガレージってとこに行って、その場で断られた覚えがある、こういうのやってないんだよねって。パンダみたいな顔したオヤジに言われた。あと251か。リハーサルでPAの太ったやつがパンをもぐもぐしながら指示してきて腹がたった。
そんな頃に秋葉原のグッドマンに出た。そしたら店長が、こいつらおもしれーぞってなって、ちょくちょく出してもらえるようになった。ノルマとかなかったし。リクオさんと一緒にやらしてもらったり、ボガンボスの永井さんのバンドとやったり。
あと西荻窪のターニングもよく呼んでもらった。
渋谷とか下北は全然だった。別に無理して金払ってまで出なくていいよ、って。だからその頃の流行りのバンドとか全然知らなかった。
ちょっとマニアックなライブハウスばかりだったけど、だんだんバンドが面白くなってきた。
かおるちゃんは1年くらいでやめたのかな。就職しますとか言って。そのあとどうしたっけ。ツネに頼んでまた叩いてもらったのかな。
けど、そうこうしてるうちに岸田が東京60WATTSから離れていった。半分ビジュアルバンドのツアーに出たり。自分のバンドやりたいってメンバー集めて、曲書いたのに、それが全く思うようにいってなかったりして。言い出しっぺの岸田がやめた。
あいつは今Cittyっていう自分のバンドやってる。いつのまにか同じ事務所に所属してたり。相変わらず曲は遅漏みたいだけど。
そういや、東京60WATTSってバンド名を決めるくだりを飛ばしてた!大事じゃんな。
けどたしかいつの間にか決まってた。俺が学生時代に組んでて、自然消滅したバンド名で、なんか耳触りがいいからこれでいいじゃんくらいの。
ドラムがいなくなって岸田がやめて、コースケはだいぶ前から行方をくらまして。結果、太郎とたくおと俺の3人きりになった。
曲も出来てきてたし、ライブも面白くなってきてたし、俺は続けたかったんだけど、ふたりはそういう風に見えなかった。もともと暇で半分遊びみたいな感じで誘われてきたし、引っ張るやつもやめたし。たぶんやめちゃうだろうと思った。
池袋の居酒屋で集まって、どうする?って聞いた。そしたら食い気味に太郎が「やろうぜ!せっかく続けてきたんだから」って言った。たくおはたぶん何も言わなかったけど、それがYESの返事なんだろう、と判断した。
東京60WATTSは3人きりで再始動した。
1999年から2000年くらいの話だ。
つづく